月別アーカイブ: 2016年1月

初めての50アップ

昭和63年11月、就職して半年経ち、やっと念願のマイボートを購入した。何せその頃高知ではレンタルボート屋はなく、リザーバーで釣りをするのは至難の業だった。

学生の頃よりお世話になっていた、町田のプロショップ、キングフィッシャーにお願いして、ジョンボート(LOWE)12フィートと、エレキ(モーターガイドブレイブ18lb)、バッテリー、チャージャー、パドルと1そろえ送ってもらった。40万ほどだった。後に船外機ランカーで購入した。

それからは週末毎にデッキを組んだり、いろいろした。とにかく情報のない時代で、エレキってどう取り付けるの?みたいな状態だった。それでも何度も失敗しながらなんとかかんとか乗れるように組み上げた。

それまでに、何度か十市の池に通い、ランカーでリザーバーの情報も得ていた。

初めてのカートップフィッシングは穴内川ダムに決めた。室戸から国道55線を走り、32号線に入り、根引峠を超えて国道を折れ、くねくねと上るとダムが見えた。結構大きなリザーバーだ。そこからダム湖沿いの道をしばらく走ると、言われたスロープの入り口についた。

ここからはスイッチバック式に降りていき、水面近くで車を停め、ボートを降ろし準備した。

初めてボートに乗り込み、初めてフット式エレキを操船した。意外と簡単に思ったように動かせた。

スロープから上流(右)に向け進んだ。リザーバ特有の急進な地形があり、そこをディープクランクでなめるように引くイメージで進んだ。

しばらく進むと、それまでのガレ場から、赤土のスタンプがたくさんあるところに出た。ルアーはレーベルのファーストラックDR。なぜだかこれをスピニングタックルで引いていた。

船の進行方向斜め前方にキャストして途中スタンプに当てる感じで引いてきた。何度かスタンプを超えたように感じたとき、フッと軽くなりグッと重くなった。合わせると、もの凄い重い引きが来た。寄せてくると、かなりデカい。口なんか完全に拳が入ると思えるほど。恐々ハンドランディングした。デカい!!自己最高に違いない。早速計ってみると、50cm。やった!!ついに50釣ったぞ!!!それはもう1人で大喜び。ココで「キープして剥製にしたい」という気持ちがムクムクと。でも、何だかなぁとも思い、複雑な気持ちでリリース。

その間に風でだいぶ流されていた。もう一度ポジションを取り直し、同じようなコースをトレースしていると、またゴン!と来た。合わせると、さっきよりもずっと強重い引き。寄せてくると、今釣った50より2まわりほどデカい魚体。ハンドランディングして、計ると55cm。スゲー!!2投で50超えが2本。またさんざん迷ったあげく、これは剥製にすることに。入れておくモノがないので、船外機のカバーに魚を入れ、船尾に置いた。魚は暴れることもなく静かにしていた。その後、釣りをしながら何度も何度も魚を見てはニヤニヤ。これくらいの魚になると、下顎の厚さがすばらしい。何度も手に持って喜んだ。

その日はそのストレッチで40を1本追加したのみで終了。ってかその後は何が何だかわからない状態。当然集中もできず、早めに終了。

持ち帰った魚は、早速キングフィッシャーに連絡して、剥製にしてもらう手続きをとった。ちなみに料金は1cmあたり900円+額台。送料を含めて約60000円となった。今でも我が家のリビングにデンとしており、見る度にそのことを思い出す。

 

初めてフロッグで釣ったこと

十市の池に通い出して何年目だろう、その頃の十市は池の畔をハスが埋め尽くし、岸からやれるところに水面はほとんど無かった。そしてハスの葉の下には藻が茂っていた。
こういうところでは今ならフロッグをメーンに使うのだろうけど、その頃“フロッグ”として売られていたのは、スナッグプルーフガルシアフロッグハリスンスーパーフロッグかへるくんくらいのモノで、日本でフロッグを使ってる人なんてほとんど居なかったと思っている。
自分もなんだか自信が持てなくて、フロッグを使わずにいた。その日までは。
わずかに残った水面をトップで釣ったりしていたが、毎回のように藻が引っ掛かってくるし、一番釣れそうなハスの葉の下では使えないし、イライラがつのっていた。
とある場所に来たとき、不意に「フロッグ使ってみよ」と思い立ち、ベイトタックルの先にスナッグプルーフのフロッグを結んでキャストした。

・・・・ら、いきなりバックラッシュ。フロッグはかなり手前にポトリと落ちた。バックラッシュはかなり酷く、解くのに時間がかかっていた。それももうほどけ終わった頃、「ドッカ~~ン」とまさにそんな音がした。なんだなんだと思ったが、どうもフロッグの落ちた辺りらしい。フロッグも見当たらない。何となくリールを巻き糸が張ったところで大アワセをくれた。(もしかしたらバスが出たのかっていうスケベ根性丸出しで・・・)そしたら重みが乗り、バスの引きが来た。もう無我夢中で、引き寄せると、藻の塊がこっちに来た。手元に寄せ、藻をほどいていくと、中からデカいバスが現れた。計ると48cm。それまで苦労していたのに、簡単にデカいのが釣れちゃった。

その日はフロッグを使い続け、5本、すべて40を超えるバスをキャッチできた。釣りを終え、フロッグを見ると、頭が裂け、そのままでは使用不可の状態。その足でランカーに寄り、フロッグを3つほど追加すると、「十市ですか?」と聞かれた。「はい、今日初めてフロッグで釣れました。」と何か誇らしい気持ちになれた。

初めて高知で釣ったバス

昭和63年4月に高知県に赴任した。釣りはずっと続けていた。全国バス&ライギョ釣り場案内っぽい本で、高知県の釣り場を調べた。

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室戸から一番近かったのは奈半利の奥にある平鍋ダム。しかしリザーバで、足場が少ないと書いてあった。次に近いのは南国市の通称十市の池。ウイードが豊富でバスもライギョも釣れるとあった。赴任早々体調を崩したり、仕事が忙しかったりで、なかなか本格的な釣りに行けない日々が続いたが、なんとかGWの前に、十市の池に行ってみた。

室戸からは車で2時間ほど。室戸・奈半利・安芸・野市と過ぎて海岸線を走る。今のトンネルのない時代、少し細い道を走り、出ると、池があった。当時はハスの池ではあったが、GW前なので、まだ少し水面もあった。ウイードが多いとは書いてあったが、これほどまでとは思っていなかった。どこからやろうか迷いながら池の畔をうろうろした。

ふと目に止まった、やや水面の開けた場所。ルアーは、なぜだかレーベルのブラックスター。今思うとなぜだろう。自信を持っていたルアーでもないし、水面までもがあるのに少し潜るタイプだし、無くすのが嫌だから、普段あまり使わない(無くしても惜しくない)のを選んだのかな?そんな適当なルアーチョイスで、藻の切れ目を狙って投げた。グリグリッと少し巻いてプカッと浮かせる。また巻いて浮かせる。もう一度グリッと巻いたところで、グッと重みが来た。これが初めて高知で釣ったバスになった。型は35くらい。まずまずか。意外とすんなり釣れたかなという感じ。しかしその後は反応無くその日は終了。

これが十市通いの始まりだった。

 

初めての“ランカー”

ランカーって言葉を日本に持ち込んだのは則さんだと思う。フィッシング誌でトップウォーターの特集をやったときだ。その記事では(その頃はよく理解できていなかったが)大物という意味で使われていたと思う。年間ランキングに入るような大物=ランカーであったと思う。
その後何年かして、何かのテレビかビデオかで「これはランカーあるな」という言い方を聞いた。そして続いて観ているとどうも、50cmを超えることをランカーと呼んでいるようだ。言葉は変わるモノだし、上から否定はしないが、何だかなぁと思う。
で、私が初めて“大物”と呼べるバスは、大学4年の春先に釣ったモノだった。
水産大学で、船乗り課程を専攻していた自分は、4年卒業後、専攻科という課程に進学が決まっていた。専攻科に進学する者は、大学4年の冬に4ヶ月の乗船実習がある。シンガポール、ペナンと周り帰国したのが、春先であった。
帰国するやいなや、釣り友から、「千葉のリザーバーでむちゃくちゃ釣れるところを見つけた、行かないか?」と誘われた。もちろん即OKで釣行となった。
千葉市にわりと街に近い、丘の中にそのリザーバーはあった。その日は春の暖かい雨がポツポツ降っていて、釣り日和大物日和であった。
その頃より日本では“ゲーリーグラブ”が大爆発していた。4インチのグラブにそれなりのジグヘッドで泳がす釣りは、それまでのスライダーワームの飛ばない、引いてる感無いと言う頼りない釣りではなく、よく飛び、引き感もある、へたくそバサーには実に使いやすいアイテムだった。日本に帰ってきて、それを知り、早速いくつか持って行っていた。
その日は、入るなり、イイ型(35クラス)のバスが、それこそ入れ食いのように釣れた。そして、ヘッドもグラブもなくなり、プラグではあまり釣れなくなっていた。
最後に、放水口のポイントに入った。友人はそこでもグラブでほぼ入れ食いで、自分はスピナベなどにたまにヒットがある程度で悔しい思いをしていた。
タックルボックスを見ると、グラブ用ではないでかいジグヘッドがふと目に入り、その横に、チャートリュースのツインテールフラグラブがあった。ゲーリーのグラブは大人気でなかなか入手できず、これだけは余るように並んでいた。しゃぁなしで買った1袋であった。仕方がないので、デカジグヘッドにツインテールフラグラブを刺し、放水口の流れの先にドボンと投入した。4インチグラブなら中層をスイミングさせるところだが、このヘッドは重すぎて、すぐにボトムについた。なので、ボトムをチョンチョンと飛ぶようなアクション(ボトムパンピング)させながら引いてきた。ほぼ手元に来たとき、ちょんと跳ね上げるとグッと手応えがあった。そしてもの凄い引きが伝わってきた。慌てて取り込みに入る。ややあって浮いてきた魚は、これまで見たことのない大きさ。もうビビリながらハンドランディングするが、持ち上げるときに重かった重かった。口もデカイ。横にいた友達もビックリ。メジャーで測ってみると、48cm。デカイデカイ、こんなの初めて釣った。50には足りないけど、スゲー!
その日はその後何をしたか記憶はないが、満足して帰ったに違いない。

初めて釣ったブルーギル

ブルーギルという魚が居ると初めて聞いたとき、なんてカッコイイ名前の魚なんだ!と感動したことを覚えている。今のように害魚、外道扱いされるずっと以前の話。
そして、ブルーギルが釣れるのは、当時、伊豆の一碧湖と、宮崎の御池、鹿児島の薩摩湖等、限られたところという印象だった。それくらい情報もなかった。
家族旅行で伊豆に行ったときに一碧湖で挑戦してみたが、釣れなかった。

高校2年の夏、仲良かった仲間と「青春18切符」を使って九州を1周しようという旅行企画が盛り上がり、ついには実現してしまった。その中で、どうしても薩摩湖に行きたい自分はその日だけ単独行動をとって、薩摩湖畔に立った。薩摩湖は池かと思うくらい小さな湖で、ほぼ1周歩くことができた。バス狙いであちこちして、1カ所だけ、魚が水面まで浮いてきたが、それ以外は何の反応もなく、半分諦めていた。湖畔に座りながら、水面をボ~~~っと眺めていると、ポチュッと水面が割れた。何だろう、近くをよく見ると、なんだか青白いヒレの魚がフラフラ泳いでいる。「もしかしてブルーギル?」と思うと、居ても立っても居られなくなり、でも、魚のサイズが小さいのでルアーでは無理と判断し、ウキと袖針と、カミツブシを見つけ出し、ルアータックルの先に結んだ。餌は、近くを掘ると運良くミミズが出てきた。これを小さく切って針に刺し、少しキャストした。ウキが馴染んですぐ、ス~~~ッと引き込まれた。竿を立てると、ククッと小気味よい引きが来て、キャッチ。見ると、ブルーギルだった。「やったやった!ブルーギル釣ったぞ!!」と、今では考えられないリアクションだった。その後入れ食い、ミミズがなくなるまで10数枚釣った。それくらい釣ると、簡単に釣れるだけに、さすがに飽きた。

30年を経て、薩摩湖を訪れてみると・・・写真だけ。

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中身はまたの機会に書きます

初めて釣ったバスらしいバス

ファーストバスを手にしてからも、バスという魚はそんなにたくさん釣れるモノではなかった。当時というか、年齢もそうだし、タックルや生態面での研究等が不十分なこともあり、難しいターゲットだった。
当時の雑誌には、「プラスティックワームというのが出だした。水槽で観察した結果、バスはワームの尻尾からくわえ、徐々に飲み込む。だからアタリがあったら10秒は待ってから合わせる。」なんて記述があった。だからワームを買って、当時はテキサスリグしか方法がなくて、それを持って河口湖でキャストしたら、何投目かにアタリがあって、一生懸命に10カウントしているウチにバスが離しちゃう。もちろんその間リールのクラッチは切って走りたいがままにさせておいたのだが・・・それが何度もあり、やけくそでアタリがあって一呼吸で合わせたら、ガッツリヒットなんて事があった。その魚はバラしてしまったけれど、イイサイズだった。
そんな試行錯誤を繰り返しているなか、ある日津久井湖にボートを出した。ボートを出すのに2500円だった。当時の中学生には痛い出費。2500円あればプラグ2個以上買える。でも雑誌には「バスはボートからの方が断然有利。」と書いてあったので、思い切って乗ってみた。
北根小屋でバスを降りるとすぐそこに矢口釣具店と中村釣具店があった。その時は近い方の中村釣具店に行き、ボートの手続きをした。急な崖を降り、初めてボートに乗った。もちろん手漕ぎ。津久井湖右岸から漕ぎ出し、まずは三井大橋を目指した。

三井大橋といえば、津久井湖で大物スポットとして当時有名で、知り合いも47センチを釣ったとか。47センチといえば、当時超大物で、今のロクマルくらいの感じだったわけで、季節も関係なくそこにまずは向かった。三井大橋の橋脚を一通り釣り、何もなく、そこから下流に向けて進んだ。途中、給水塔の立ち入り禁止ブイがあり、そこを流しながら、下流のワンドに入った。ココは沢が2本流れ込んでおり、沢に挟まれた部分は馬の背になっている。減水時に見ると、馬の背の先端が山になっており、あとで見て、「これは釣れるわ!」と納得のいく地形であった。しかも山の頂上付近には細い立木が生えており、もうサイコーのロケーション。その時はそんな地形を知るよしもなく、山の頂上は水深3mほどだったはず。馬の背の延長上にボートポジションを取り、ルアーはクリームのワーム。カラーはまんまミミズ。

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ワームという言葉の通り、当時ワームはミミズのイミテーションと皆が考えていた。スライダーワームが有名になるずっと前の話。リグはテキサス、7グラムのシンカー。第1投。うまく岸際に落ち、ズルズルと引いてきた。ちょうど山にさしかかったあたりで、グッと強いアタリが来た。少し待って、ガッツリ合わせると、今までにないような強い引きが来た。それでも強引に寄せた。魚が見えた。それまで生では見たことのないような大きいバスだった。(とはいえ35クラス)震えながら、下顎掴みに入った。親指が触れた瞬間、バスは首を振ってもがいた。「素直につかませてくれる訳じゃないんだ」そう思った。もう一度、今度は気合いを入れてつかんだ。はが少し親指に食い込む感じもしたが、グッとそのまま力を入れ抜き上げた。

大きい!こんな時に限ってメジャーを持っていない。それでもフェンウイック・バッシングスピン952のグリップより長かった。キープしたい気持ちもあったが、リリース。

次の1投、また当たった。今度は少し小さいが、それでも30弱。自分史上2番目に大きいバスだ。

その後アタリは止まり、その日はそれで終了。デモでも、初めて“バス”と言えるような大きさのバスを釣った。もう嬉しくて嬉しくて。写真さえないが、今でもはっきり記憶に残っている。

初めてルアーで釣った魚

初めてシリーズ第2弾

小学校高学年でルアー釣りの魅力に取り憑かれ、月一でルアーも集めだし、小さなタックルボックスもクリスマスプレゼントでおねだりして、ボックスの6割くらいが埋まった頃、中学生になった。
”ルアー釣り秘訣集”には巻末に釣り場案内も出ており、町田から近いところでは相模湖・津久井湖・震生湖・芦ノ湖と載っていた。対象魚として、ブラックバス、ナマズ、芦ノ湖ではそれに加えてニジマス、ブラウントラウト、ホンマスとあった。ナマズが釣りたい釣りたいと思い続けてはいるものの、中学生になり、違った小学校から来た友達も増え、また、雑誌などで取り上げられることが多かったブラックバスがターゲットナンバー1になっていた。
相模湖には、横浜線で八王子まで行き、そこから中央線で相模湖駅下車と書いてあった。津久井湖は横浜線橋本駅下車、バスで北根小屋等で下車と書いてあった。芦ノ湖には町田から小田急線で小田原に行き、そこからバスか、箱根線で箱根湯本まで行き、そこからバスとあった。町田から行くには、震生湖が、一番単純だった。小田急線で大秦野まで行き、あとは歩くかバスと書いてあった。一番行ってみたいのは芦ノ湖だが、入漁料も要るし、少し遠いので、震生湖に行くことに決めた。

小田急線新原町田には急行が止まり、急行に乗ると大秦野まで1時間弱でついた。駅を出ると、バスターミナルがあったが、歩いて行けるなら歩こうと、駅前の店で道を聞いた。店の人は「歩けなくはないけど、バスの方が・・・」と言いながら道を教えてくれた。

歩き出すとすぐに川を渡る橋に出た。橋から覗くと錦鯉のデカイのがうようよ泳いでいた。そこでいきなりこれを狙ってみることにした。一番はじめに買った赤白スプーンを結び、投げた。何投目か、グンッ!というアタリと共に、何かがヒットした。それはもの凄い引きで暴れ回った。少しすると、水面に出てバチャバチャやり出した。赤白の50cmはありそうな錦鯉だった。その騒ぎを見て人が集まってきて、中の一人に「ココの鯉は飼ってるから釣っちゃダメだ!!」と怒られた。・・・と言われても、ファイト中にどうしようもない。そうこうしているうちにプンッとルアーが外れた。針が伸びていた。おじさんには少し怒られ、「すみません知りませんでした」と言って反省しつつ、震生湖を目指した。これがルアーで初めて掛けた魚だった。強烈すぎる。

駅から小一時間歩き、畑の中の道を上り、少し下ってくると、森の中に「池」のような震生湖があった。関東大震災の時に川を堰き止められてできたので、そう呼ばれているらしい。まわりには遊歩道があり、静かな感じがした。畔には1件だけボート屋兼雑貨を売っている店があった。大きさは周囲1キロもないだろうか。とりあえず情報収集に、店に行ってみた。少し話をして、パンを買ったら、すいていたせいか、「桟橋で釣ってもイイよ」と言ってくれた。

桟橋に上がると、湖の半分ほどが見渡せた。湖面に向かい、右手は開けており、左手手前にはブッシュ、奥にはそれこそ教科書通りの立木があった。当然左を攻めてみる。ルアーは、雑誌「釣り人」の鹿児島大学釣り研が出した釣れるルアー統計の第2位、ホテントット紫カラー。第1位はレーベルファーストバックDRの紫だったが、吉田釣具店には売っていなかった。ホッテントットを立木めがけてフルキャストし、リールをグリグリッと巻くと、もの凄い抵抗とブルブルッという感覚が伝わり、あっという間にルアーは見えなくなった。あまり沈めて引っ掛かったらヤだなと思い、しばらく巻くのを止めた。ゆっくりゆっくり紫のホッテントットがお尻を先に浮いてきて、水面にポツンと出た。またグリグリッと巻いて浮かせる。何度か繰り返し、もうほとんど手前、ブッシュの横を通過し浮いてきたくらいのタイミングで、ルアーの斜め下側に何か影が見えた。大きさは20cmくらい。尻尾と思われる部分の先っちょが黒くなっていた。ホッテントットはまた水面に出た。陰ももっと近づいてきた。「バスだ!」思わず叫んだ。初めて見る生バスだった。友達の間でもまだバスを釣った者はいなかったし、生きているバスを見たり触ったりもしていない。ホッテントットを浮かせたままにしておくとバスはもう少し近づきルアーをよく見た後、沈んでいった。嗚呼嗚呼~~~~

その後何度か同コースを引いてみたモノの反応はそれきりだった。

ルアーを代えようと、タックルボックスを見た。一番上のトレーに、最近買った2匹100円のカエルルアーが見えた。緑で小さなモノだった。今日に備えて、針を仕込んできていた。

それを取り出し、思い切ってブッシュに投げ込んでみた。カエルは着水と同時にゆっくり沈み、ピッピと引くとやや浮いて水面近くに来た。それを追うように下からバスの魚影が2つ現れた。そこでカエルを沈めるとそれを追うように沈んでいった。またピッピと引くと、次はもうついてこなかった。嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼~~~~

それきりそこでの反応はなくなり、店の人にコーフン気味に話をしてからお礼を言って、桟橋を降りた。そこから遊歩道を歩きながら釣りをしたが、その日はそれ以降何もなかった。

これが、私のバスとのファーストコンタクトになった。

 

その年の夏(中1の夏)、友人が、「相模川のジャリ穴にもバスが居る。」という情報を持ってきた。1週間後、相模川攻撃隊が編成され、昭和橋に向かっていた。自転車で。

町田から相模川までは自転車で1時間ほど、昭和橋に着いた。相模川の(津久井湖の下流ではあるが)上流部にあたるが、川幅は広く、橋も大きかった。橋の対岸にはジャリ穴ではなく、ワンドがあった。ワンドに降りていくと、丁度ルアーマンが居た。その頃ルアー釣りをしている人をそう呼ぶことが多かった。バス釣り、トラウト釣りという区分がそれほどあったわけではなかった。

ルアーマン氏は大きな両開きの(アムコの)タックルボックス一杯にプラグを入れていた。うわ!スゲ~~~!!ルアーマン氏にお願いして、タックルボックスの中身を見せてもらった。あこがれのルアーが山盛りのボックスを見て、「いつかは俺もこんなになりたい」と思った。ルアーマン氏はブローニングのロッドミッチェルのリールに、ガルシアフロッグを付けて、ワンドの対岸に浮いている木を狙って投げた。ポトンと落ちて、ス~ス~っと正に蛙が泳ぐように引いてくると、下から、震生湖のとは2まわり以上大きいバスっぽい陰が複数浮いてきた。ルアーの真下まで来たモノの、結局は食わず、反応はなくなった。

その日、自分たちが釣りをしたのか、その記憶はない。それでもルアーマン氏のことは今でも覚えている。それだけ衝撃が強かったのだろう。

相模川にバスが居るということは、バスがより近くに来たと感じさせた。何せ、自転車で行けるのだから。それから1夏の間に何度か場所も変えながら相模川に攻撃隊は出撃したモノの、釣ることはできなかった。ただ、夏の終わりにいった田名のジャリ穴では、死にかけのバスを捕獲し、初めて生きたバスに触ることができた。

 

その頃、バスは冬には釣れないといわれていた。深いところで冬眠状態で、餌は食わない・・・と。だから、秋が終わるとバスシーズンは終わりだった。

 

通っていた薬師中学校では2年生が林間学校に行くことになっていた。行き先は山中湖。ちょうどその春頃より釣り雑誌には富士五湖でバスが釣れるという特集が組まれ出した。そして山中湖でも、平野ワンドでバスが釣れると書いてあった。林間学校の宿を見ると正に平野ワンドに面したところであった。「やるっきゃないでしょ」って事で、雑誌に書いてあったヒットルアーをコツコツと買い集めることにした。中学になり、新聞配達のアルバイトをしていたので、ルアーを少しは買えるようになっていた。

ヒットルアーナンバー1は、セルタ、2g。メップス・アグリアブレットンなどの小型スピナー。中でもセルタが抜群と書いてあった。それらをいくつか買い、林間学校に臨んだ。

2日目の早朝、いつものメンバーは平野ワンドに立った。数メートル間隔に開き、思い思いにルアーを投げた。その頃の平野ワンドは、ほぼ水面までウイードが覆い、少しでも沈めると藻が掛かった。初めのうちはその藻が掛かったのをバスのヒットと勘違いし、思いっきり合わせ、ロストを繰り返した。とうとう最後のスピナーが無くなった。その頃友達は、セルタで、ファーストバスをキャッチしていた。それもほぼ全員。釣れてないのは自分だけ、しかもスピナーもなくなっちゃった。ヤバイ。で、タックルボックスを見て考えた。釣れていたバスはどれも小さく、15cmほど。ならば大きなルアーはダメだ。そこで目に止まったのは背中が緑で腹が黄色のヘドンタイガーカップ。それを結び、藻の切れ目にキャスト。グリグリッと潜らせ、フラフラッと浮かせる。グリグリ、フラフラ、グリグリ、フラフラ バチャ!水面が割れた。

何が何だかわからない。でもたぶんタイガーに魚が出たのだろう。そこでなぜだか一呼吸置いて合わせた。グッと重みが掛かり、乗った。それからは無我夢中で取り込んだ。ファーストバスだ!!しかもプラグで釣った。トップ状態で釣った。友達のより大きかった!!

もう嬉しくて嬉しくて。大事に大事にストリンガーに通した。リリースなんて考えない。持って帰って自慢しなきゃ。その思いで宿に無理を言って冷蔵庫に入れさせてもらった。

今思うと、トップのアワセが自然にできていた。その一呼吸は神様が知らせてくれたのか?自然にできていた。

バスは帰宅後、魚拓にとり、塩焼きにして供養した。おいしかった。

そのタイガーカップ(タイガーカブという言い方もあるが、その頃はカップと呼ばれていた)は今でも手元にあり、時折ニヤケを誘っている。

 

初めての・・・ルアー

しばらく釣りに行けそうにないので、釣りに関する“初めて”について書いていきます。

初めてのルアー
小学校3年で大阪・堺から東京の町田に転校した。堺に比べ町田には自然がたくさん残っていた。堺にいた頃に始めていた釣りも、釣り場が多く拍車が掛かった。
町田の住居は公団団地で、団地内の本屋でふと目に止まったのが、井上博司著「ルアーづり秘訣集」だった。その頃、なぜだかナマズに惹かれ、ナマズを釣りたくて仕方がなかった。秘訣集には対象魚別の狙い方や適したルアーも記されていた。それによると、ナマズは暗いところを好むため、“ヒカリモノ”が良い、とのことであった。
その頃町田は、小田急線と横浜線が乗り入れており、横浜線の駅名が原町田、小田急線は新原町田となっていた。新原町田駅にほど近い場所に「吉田釣具店」があり、母親の買い物に連れて行ってもらっては、その店を覗いていた。店は小さな作りで、餌釣りの道具と少しのルアーを置いていた。中年の女性姉妹がやっており、釣具店としては珍しかった。古き良きたたずまいと、常連客、ヘラブナの餌のにおいのする釣具店であった。そこで母親と約束をして、「良い子で居たら、月1つルアーを買ってもらえる」事になった。我が家はその日食べるものに困るほどではなかったが、決して裕福な方ではなく、当時でも1つ1000円以上するルアーは、小学生にはおいそれと手の出る品物ではなかった。月一ルアーが決まってからは、秘訣集がすり切れるほど読み、どれを買うかを楽しみにしていた。

いざ、その日、吉田釣具店のウインドウを覗くと、プラグ、スプーン、スピナーが並べられていた。ナマズが釣りたい=ヒカリモノ=スプーンという図式ができあがっていたので、特にスプーンを入念にサーチした。アブのトビーアトムダーデブル

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クサモンダイワオリムピックのセット・・・

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どれも魅力的ではあるが、ダイワ意外は値段も良い。でも、今のところダーデブルの赤白の曲線が一番かなぁと、さんざん迷ってふと顔を上げると、壁に掛かったいわゆる安物ルアーが目に入った。色はダーデブルと一緒の赤白。我が家の経済状況を何となく知っている自分としては、あまり高いものを買ってはマズイという、何となくひねくれた思考回路(チキンライスの歌詞がズバリ当てはまる)もあり、釣具屋のオネイサンに、指を差して、「これでもナマズ釣れますか?」と恐る恐る聞いた。「これね?」と言って手に取らせてくれた其れは、裏返すと、銀色の“ヒカリモノ”であった。「釣れると思うわ」という後押しもあり、生涯初ルアーは名もない赤白スプーンとなった。

初めての・・・

年がら年中釣りに行ってますと、釣り納めや釣り初めといったモノをいつにするのか、またわざわざそ う思う必要があるのかと考えます。
しかし、昨年(2015年)は、強制的に釣り納めとなりました。

12月30日、朝、いつものように裏戸湾に様子を見に行く。潮は上げ、もうすぐ満潮になろうしており、普通の足場は水没。やや高い、それで、可能性のある場所に入る。気温は昨日に比べかなり下がって いる。昨日(29日)にもここに来て、エバを1つ釣っていた。

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ルアーはオーバーライド。「気温も低いし、やや沈めて・・・」とまたオーバーライドで底を小突く。何度かやってみるも、反応無く、ならばと、トップ(ヤマトJr)に代えて沖目を狙ってみる。潮は右から左に流れている。正面に投げ、やや流されながら、パチョン・パチョンと引いてくる。とりあえずチヌ狙いのイメージ。パチョンパチョンバショ!!
出た!チヌだと思い、合わせずそのままにしておくと、グ~~~っと引き込まれた。「1発で乗るなん て!」ややビックリしながら寄せに掛かると、いきなりジャンプ!「チヌじゃないじゃん、シーバスだぁ」 それでもそれほど大きなサイズではなく、寄せてきてキャッチ。あまり期待してなかっただけに嬉し い。

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もう1投すると、また出た!でも乗らない。出た!また乗らない。今思うとこれが地獄の誘いだった。
出たところは、先ほどのシーバスの場所より左岸奥寄り。次の1投、出ない。もっと奥まで入れた次の1投、出た!乗らない。その後反応は途切れ、奥側に移動することに。
階段を上がり、堤防の上を歩く。普段もそうしており、別段何ともない感覚。目は、魚を探しながらやや遠くを見ていたら、スカッ!と、足を踏み外した。
その後は何かにつかまれるわけでなく、気付いたときは「浮いてる、落ちてる」的。そのまま地面に ドン!地面は拳大の石が敷き詰められている。右半身を下に落ちた。意識はある。落ちた瞬間は息ができない。「昔鉄棒から落ちたのと同じだ。しばらくすれば回復する」とわりと冷静。30秒ほどだろうか、息ができるようになった。手は動くのか腕は・・・手も腕も動く、折れてない。背中が痛い。仰向けに寝てみると、余計に痛い。また横向きになり周囲を見渡してみると、もうすぐ潮がここまで来そうな水位、ヒップバッグに入れていたルアーは落下の衝撃で散らばっている。「これをタックルボックスに入れるのはしんどいな」と思っていると、近くに発泡スチロールの適度な大きさの箱を発見し、それに入れようと、取りに歩く。足も痛いが、何とか歩ける。拾って戻り、ルアーをかき集め、「水が来る前に」と階段を上る。結構キツイ。階段を上りきってそこに腰を下ろすと足下にロッドがあり、折れていない。しばらくその体勢で座ったまま居る。徐々に痛みが増してくる感じ。このままいたらここで動けなくなると思い、車まで移動する。なんとか車までたどり着き、座って、リクライニングしてみる。しかし余計に痛い。席を直立に戻し、しばらくそのままでいる。痛みは増してくる。救急車を呼ぶか、病院に行くか、うちに帰るか、いろいろ考えを巡らせる。一番怖いのは、病院に行って、入院させられて、船に乗れなくなること。年末だし、外科もあまり思い浮かばないし、救急病院も変なところ連れて行かれちゃったら困るし・・・うちに帰って、しばらくしたら治るかも・・・で、動けるうちに車で家に帰ることに。右手はまともに動かないので、あまりカーブのない道で帰ろうとゆっくり発車させる。道の凸凹による振動も痛い。曲がるときに振り返ることができない、ミラーで慎重に確認し曲がろうとするが、ハンドルを回すと痛い。ゆっくりゆっくりソロソロ帰る。幸い年末の早い時間帯なので、車は少なく、わりと自分のペースで走らせられる。いつもより遅いペースで帰宅。車から降りるのが大変。ゆっくりゆっくり体の方向転換をし降りる。家に入って、さぁ、どこに落ち着くか・・・とりあえず自室のリクライニングチェアに腰掛けてみる。普段ならイイ感じのチェアも、やや深く、痛みが走るモノの、体勢変換もできない。そのまましばらく居ると、痛みが薄らいできた。テレビを付けようとするが、リモコンに届かない。エアコンのコントローラーにも届かない。服装は出かけたまま。トイレにも行きたいし、咽も渇いた。いろいろな欲望が出るが、動けない。体を起こそうとするが、とにかくちょっとでも動くと痛みが走る。息が切れる。で、激しい呼吸をすると、また痛い。でも、とにかく立ち上がって、することしないとダメだ。本当にスローに、少しずつ、なるべく痛みを感じないようにユルユルとまずは深く腰掛けていた状態から、体を起こす。痛いのを我慢して何とか起こした。ここでまた呼吸を整える。汗がダラダラ出てくる。ここから立ち上がるにも、何かに掴まらないとできない。障子の桟に指をかけ、ユルユルと立ち上がる。ふぅ!立ち上がってしまえば痛みは少しマシだ。まずは2重に履いていたズボンの1枚を脱ぐ。これも激痛との戦い。トイレに行き、水を少し飲む。できるだけ動かずにすむように、コップに水を入れ部屋に戻る。エアコンを付け、テレビを付ける。チェアの腰の部分に枕を入れ、深く腰掛けずに済むようにする。テレビは年末番組をやっていた。またチェアに腰掛けようとするが、痛い。何とか体を沈めて安静にする。ここでSNSに報告する。すると、友達からは、「とにかく病院に行け」という励ましレスが多く来る。この段階でも恐れていたのは、「骨折→入院→船に乗れない」事で、とにかくもう少し様子を見てみようと思っていた。

食欲はなく、昼食は席に着いたモノの吐き気が来て食べられない。この年末になんと情けないことか。と思うモノの、どうしようもない。結局昼食時に立ち上がった以外ずっとチェアに沈んだ状態で過ごした。

夕方になり、少し食欲が出たモノの、結局はシリアルを少しかじっただけ。夜になって、布団に横になるも、痛くて体勢がとれない。まず仰向けは絶対無理。左を下にコーマの姿勢をとってみるモノの痛い。しかも、一旦寝てしまうと、立ち上がれない。1時間ほどもがいて、やっと立ち上がった。こんな時に何かあったらそのまま死んでしまうと変な覚悟が生まれた。仕方がないので、布団や毛布、枕を組み合わせ、チェアに寝床を作った。これも痛い痛い。それでも何とか寝る体勢が作れたので、夜中に咽が渇いてはいけないので、枕元に水を置き、寝てみる。体を沈める瞬間は痛みが走るが、しばらくすると薄らぎ、そのまま少し寝た気がした。痛みでパッと目が覚めると、2時間ほど経っていた。それからは寝る起きるを2時間間隔ほどで繰り返し、朝になった。

1晩経ってみて、痛みはなくなるどころか、少し増した感じもあり、SNSからはちゃんと病院行けという励ましもますます届いており、病院に行くことを決意。ネットで、「高知市・外科・担当医」と検索し、担当医を紹介してくれるサイトを見つけ、電話してみる。「たぶんオネイサンが出てくれる」と期待したモノの、男性の少し冷たそうな声で「どうしました?」と聞かれ、事情を説明し、「検索するので少しお待ちください」「○○外科、○○外科がありますが、どこがイイですか?」と聞かれたので、「○○外科」(以前一度痛風で診てもらった高知市内では大きな整形外科)とこたえると、「少しそのままお待ちください、今受け入れを聞いてみます」「今立て込んでいて、受け入れできないそうです」と言われ、「では次の○○整形脳神経外科をお願いします」この段階でももう藁にもすがる気分。「今は混んでいるので1時間後くらいに行けますか?」「行けると思います」「思いますというのは?」「車が運転できたら・・・・です」「・・・では困るんですが・・・」「なら行きます、なんとしても」「では病院にお伝えします」「ありがとうございます」で、行くことになりました。でも、なんか冷たい対応だったなぁと思いながら、支度をする。昨日だいぶ汗をかいたので、下着を取り替えたい(風呂に入っていない)が、Tシャツを脱ぐのが大変。何とか着替えて、車に乗り込むのが大変。ドアを閉めるのも大変。バックでは後ろをミラーでしか確認できない。それでもユルユルと出発。なるべく広くて、車が少なくて、凹凸の少ない道を選びゆっくりと行く。地図で確かめたが、始めて行く病院で、こんな時なので、道を迷いたくない。一番確実そうな道を選び、行くと、うまい具合に駐車場の前に出た。車はほとんど停まっていない。そこからすぐに夜間入り口があるが、とりあえず昼間だし、正面玄関まで行くと、「夜間通用口に行ってください」と書かれてあった。痛いのに無駄な動きをしてしまった。夜間通用口から入ると、受付らしいところが見当たらない。車いすを押している看護師風の人に聞くと、ここに居てください。今行ってきます。お名前は?と、きれいに対応してくれた。しばらくその前にいるが、座ると立ち上がるのがしんどいので、立ったまま。

呼び出され、問診で状況を説明する。とにかくという事で、レントゲンを撮る。正面とやや斜めで撮るが、その姿勢も辛い。取り終わり、また待っていると、先生が前を通る。次々と急患がやってきている。1度目、「何本か折れてる・・・」と言ってだけ通り過ぎる。2度目、診察室に戻りながら「四本は折れてる」と言って通り過ぎる。また診察室に呼ばれ入ると、「写っているだけで四本、ココとココと・・・」「折れてるとなると、骨はそのままでもいいけど、肺が心配。CT撮らせてください」

50年以上生きてきて、初めて“骨折”をした。しかもタイミング的に最悪。嗚呼情けない。

CT室に移動して、ベッドに横になってと言われるが、これがなかなかしんどい。しかも、手を頭の上に伸ばしてって・・・これがたまらなく痛い。痛みに耐えながら約5分。何とか終了し、また診察室に呼ばれ、「今のところ気胸はないし、出血もない」と言われ一安心。ここで、「もうちょっとしたら船に乗るのですが・・・大丈夫・・・ですよね?」「どこへ、どれくらい?」

「遠洋へ、2月」「・・・・ま、100%大丈夫とは言えないけど、この状態なら乗れなくはない。ただ・・・・はっきり言って使い物にならないでしょ?こんな状態じゃ。そこらは上司と相談してください。次3日にもう一回診て、判断しましょう」ということになった。

一番ヤバイ入院はなかった。痛み止めと湿布とコルセットをもらい帰宅。帰宅し、痛み止めを飲むと、多少なりとも痛みは和らいだように思えた。

そのまま年は暮れ、新年となった。元旦、痛みは多少おさまった気がするが、それでも痛い。結局1日チェアでテレビ三昧。一度だけ外出、初詣に神社に行ったきり。

2日、この日は朝からクラブのOB新年会。暗いうちから出発し、集合場所へ。痛いけど何とか運転できる感じ。しばらくすると皆集まって、久しぶりの顔合わせ。その後釣りたい者は釣りをし、しない者は見ていると、ニゴイとバスが釣れた。暖かいとはいえ、なかなかイイ感じ。一通り釣ると、することもなくなったのが釣り終了。みんなでハンバーガー屋へ移動。セットを頼みダラダラ過ごす。昼過ぎ、そろそろ鎮痛剤の効き目が薄れてきて、痛み出したくらいにお開き。ま、皆さん、それぞれの分野で活躍しているようで良かった良かった。

3日、朝から病院。行ってみると、前回とは違う雰囲気。先生も違い、また一から状況を説明。レントゲンを撮って、気胸や出血はなし。7日に、もう一度この前の先生に診てもらうことに。

4日、病院の診察結果を持って、職場で相談。日に日に良くなってはいるものの、まだ布団でまっすぐ寝れない、気胸と出血はとりあえず心配ない、1ヶ月ほどで痛みはなくなる等の話をし、検討の結果、今回の乗船は見送ることにし、陸勤務が決まり。

5日、船の部屋を空けるために船に出勤。結構手こずると思っていたが、意外とすんなりまとまり、掃除もして、部屋が空になった。なんだか寂しい気分。ただ、荷物の上げ下ろしをしたために、痛みは多少増した感じ。午後からは家で静養。

6日、1日静養。

7日、午前中病院。レントゲンとCTを撮って、診てもらう。肺に少し血が溜まっているものの、想定内というか、四本も折れている割に少ないらしい。折れたときのズレが小さかったので少ないのか?とりあえず気胸もない。次は2月に入り診せるとのことで病院終了。2週間分の痛み止めをもらった。

午後は船の仕事の引き継ぎをして、終了。帰り際に現場に行ってみる。合う人合う人に聞かれるので、落ちた高さを測ってみる。メジャーを伸ばすと・・・・・・・・4m。結構な高さでした。

8日、陸勤開始。1日疲れた。

9日、乗船の日、引き継ぎ忘れ等をチェックしに船へ。

11日、船が出港。見送るより送られる方がいいなぁと思った。

今思うと、落ちたことはアンラッキーではあるものの、落ち方、落ちたあとの怪我の具合は本当にラッキーでした。よくこれくらいで済んだなと思えるくらい。頭から落ちていたら死んでたかも。落ちた場所がフラットでなく突起があってももっと大けがになっていたはず。そして、あばら四本で済むくらい丈夫に生んでくれた両親にも感謝。強制的釣り納めと強制的初釣りお預けとなりましたが、暫くは養生して、完璧に治したいと思います。